不本意な死への入り口

宣告親類ががんの告知を受け、余命1年と宣告されました。

家族はその現実を受け入れたのですが、当人には知らせませんでした。別の病で既に長期間臥しており、寿命の刻限を思い知らせてさらに病状の悪化に拍車をかけたくなかったからです。

しかし、家族のこの想いは結局は水泡に帰しました。医師が口を滑らせたのです。

結局親類は1年を待たず、告知の日から2月で不帰の客となってしまいました。残りの日々を安寧に暮らしてもらいたいという当然すぎる思い遣りは無意味となってしまったのです。

映画やドラマでは、患者が大袈裟に落胆するか、あるいはその反対に過酷過ぎる現実に雄々しく立ち向かう、悲壮な決意の表情を浮かべる事柄でしょうが、現実には普段と同じ表情だったと聞かされました。

その場に私が居なかったのはある意味幸いだったかもしれません。私が同席していれば医師を詰問していたに違いありませんから。

親類はある程度覚悟はしていた(がんであるかどうかは別にして)ようで、死への恐怖を周囲に漏らすようなことはありませんでした。しかし、支えようとしていた家族、及び私達縁者にとっては残された時間が、善意の欠片もない失言によって大幅に削られたことに激しい憤りを感じざるを得ませんでした。再び、桜を一緒に見ようと約束したことが無になってしまったのです。

心安らかに残された日々を、時間を、愛する者達と一緒に過ごしたい。誰もが願う事柄なのです。せめて最期は人間らしく迎えさせてあげたかった。親類は見知った人間ではない、病院の関係者達の救命措置の途中で力尽きました。本人だけでなく、家族や友人、知人にとっても無念なことだったのです。

私が駆け付けた時は安らかな顔を見せてくれ、最期の時に間に合わなかったことが悔やまれましたが、穏やかな表情は苦しまずに逝けたと思われて心の救いにはなりました。病院側にとってはありふれた事象の一つに過ぎないのだろうけど、遺された者達にとっては、悔いの残る結果は心の傷となって後々まで後を引くこととなるのです。

取り返しのつかないことではありますが、このような悲劇は繰り返してもらいたくありません。防げた事象なのです。医療を行う側の人々に改めてこのことを肝に銘じてほしいです。